水素の同位体・重水素の理解と活用をめざす新しい学問領域「重水素学」。〈つくる〉〈わかる〉〈はかる〉〈つかう〉の4班に分かれて重水素化物質の研究に取り組んでいる。
今回はプロジェクト代表であり、〈はかる〉班リーダーでもある中先生に再び登場いただき、研究者としてのこれまでの道のりや〈はかる〉班の研究内容、今後の目標について伺った。
光合成の化学反応をフラスコの中で再現し、水からモノを作り出す
まずは、中先生のご専門分野について教えていただけますか?
「私の専門は有機化学で、とくに触媒に着目して化学反応を研究しています。私たちの身の回りには、石油や繊維製品、医薬品まで、有機化合物でできたさまざまな製品がありますが、そうした物質をいかに安く、環境に負荷をかけずに作り出すかということが大きな課題になっています。私が行っている研究では、材料や触媒を工夫することで、植物の光合成と同じように水や光から有機化合物を作り出すことをめざしています」
光合成と同じようにモノを作り出すとは、いったいどういうことでしょうか。
「大まかに言えば、水(H₂O)と有機化合物を反応させることで、さまざまな有機化合物を作ろうとしています。
簡単そうに聞こえるかもしれませんが、実は、水というのは非常に反応させることが難しい物質なんです。油を想像していただければわかるように、有機化合物は水と反発しあう性質があるんです。それに加えて、水自体が非常に安定な物質で、混ざり合ったとしても相当なエネルギーを加えないと反応してくれません。そこで登場するのが、私の長年の研究テーマでもある『触媒』です」
触媒というと、化学反応を助ける役割をする物質だと理科の時間に習いました。
「そのとおりです。たとえば、物質AとBを反応させてCという化合物を作りたいとします。しかし通常、AとBを混ぜるだけでは化学反応は起こりません。もちろん、高温で燃焼させるといったような激しいやり方で反応させることもできなくはないのですが、非効率ですよね。そこで、特定の化学反応を促す触媒を入れてやるのです。触媒の働きによってAとBははじめて反応して、化合物Cを得ることができます。
触媒とは、特定の分子どうしの反応を促進させるが、反応の前後で自身は変化しない物質をいう
これは私たちの身体を想像していただくとわかりやすいかもしれません。身体はさまざまな有機化合物でできていますが、それらが自由に化学反応してしまうと私たちは形を保つことができないはずですよね。実際には、体内の必要な場所にピンポイントで存在する酵素によって、毒素を分解したり、エネルギーを取り出したり、生命活動に必要な化学反応がコントロールされているのです。
酵素は天然の触媒ですが、私たちの研究では金属の粒や溶媒に溶かした有機物質、金属イオンなどの人工の触媒を使って化学反応をコントロールするというわけです。水と有機化合物の反応も、触媒を使うことで実現できるのではないかと考えて、試行錯誤を重ねています」
どんな触媒を使えば水と有機化合物を反応させることができるのでしょうか?
「ひとつは、光が当たることで化学反応を促進する『光触媒』を使う方法です。代表的な光触媒として、二酸化チタンがあります。この物質は、光が当たることで活性を帯びて強い酸化作用を発揮することが知られていて、トイレや外壁などにコーティングすることで雑菌の繁殖や悪臭を防ぐセルフクリーニング機能にも利用されています。この二酸化チタンを使うことで、光エネルギーによって水(正確には、ここではアルコールを使います)を酸素と水素に分解して、有機化合物と反応させるのです。まさに光合成の発想ですね。
もう一つは『キャリア』を使う方法です。生体内では、分解されづらい物質を分解する際、ビタミンがその物質とくっつくことで分解酵素の働きを助けていることが知られています。研究ではこの仕組みからヒントを得て、水にあらかじめキャリアと呼ばれる有機物質をくっつけた状態のものを作り、反応させたい有機物質と混ざりやすくして化学反応を起こすことに取り組んでいます。両者を混ぜると、水と反応させたい化合物とだけが反応して、キャリアは反応せずに残るという仕組みです。さらに、キャリア自体を水から作り出すことができるようになれば、『水からモノを作る』というサイクルを完成させられるでしょう。
どちらの方法も研究途上の段階ですが、こうした自然界の現象や化学反応を再現して組み合わせていくことで、最終的には光合成をフラスコの中で再現したいと考えています」
水移動型反応(キャリアを使った化学反応)
光触媒反応
ところで、光合成というと小学校の理科の教科書にも出てくるので、馴染み深い現象だと思っていたのですが、人工的に再現するのはそんなに難しいのですね。
「そうなんです。光合成というのは有機物質を作る上で非常に効率的で、人類にとって夢のような化学反応なのですが、その全貌はまだ解明されていません。もう少し細かく言えば、『分けてわかる』、つまり要素を分解していって原理を説明することはほぼできているのですが、『作ってわかる』、つまり実際に再現できるまでには程遠いというのが現状です。
人の手で再現できたとき、初めて光合成という自然の神秘を理解できたと言えるし、社会に役立てることもできる。それが私が最終的にめざすところです」
誰も見たことのない化学反応を起こす楽しさに魅せられて研究の道へ
続いて、中先生の研究者としての歩みをお聞きします。小さな頃から自然や生き物がお好きだったのですか?
「そうですね、昔から生き物について調べるのが好きで、小さい頃は恐竜博士になりたいと思っていました。出身は東京なのですが、親の実家は田舎の方で、そこから恐竜の発掘現場に連れて行ってもらったりもしましたね。もちろん、有機化学を研究するなんて思ってもみませんでした。
中学か高校生ぐらいで生物の身体の中でどんなことが起こっているのかに興味を持ち始めて、化学も生物も研究できる東京大学の薬学部に進学しました。それから有機化学の研究室に進んだのは偶然ですね。実は脳科学の研究室に興味があったんですが、ジャンケンで負けてしまって。だから4年生の最初の頃は有機化学の授業は何を言ってるのかわからないという状態でした。だけど、実験で印象が変わりましたね。当時助手だった内山真伸先生にご指導いただいたのですが、自分のフラスコの中で、世界の誰も作ったことのない物質ができたり、誰も知らない化学反応が起こったりする楽しさに取り憑かれてしまいました。卒業後は製薬会社に就職することも考えてはいたんですが、やっぱり飽きるまでは研究を続けてみようと思い直して、いつのまにか今に至ります」
すっかり沼にはまってしまったと……。
「研究の道に進むことを決めたのは、人との出会いも大きかったですね。東大の研究室では、学会や社会に認められるような成果を出すことを第一に研究に取り組むような印象があったのですが、在学中に行かせていただいた共同研究先の東北大学はまた雰囲気が違って、根東義則先生や小林長夫先生、村中厚哉さんなど、自分が素直に面白いと感じることを研究するというスタンスの人が多かったんです。それまでは『食べていくための仕事』と割り切って研究職に進むことに疑問を感じていたのですが、いろいろな価値観に触れて、自分も好きなことを自由に研究してみようと思えるようになりました。結果的には東大の大学院を中退して、東北大学に助手として採用していただいたんです。触媒の研究をはじめたのは東北大学にいた頃ですね。その後名古屋大学に移り、最終的には名古屋大学で学位を取得しました。
この名古屋大学が研究の転機になりました。着任してみて、研究のレベルが高いだけでなく、スケールの大きさにも驚きました。ノーベル化学賞を受賞された野依良治先生のご助言のもとで、『どんな研究をすれば地球環境を救うことができるだろう』『人の生き方をより良く変えるにはどうすればいいだろう』とみんなが真剣に考えて研究に取り組んでいるんです。それも直接的に何かの役に立つだけでなく、もっと長いスパンで社会の転換点になりうる研究をめざす姿勢に、当時の私はいたく共感しました。教授に昇任された前任の伊丹健一郎先生や、長らく共同で研究させていただいた斎藤進先生など、アクティブな先輩の先生方の研究に対する取り組み方も大いに刺激になりました。
自分も『社会を根本から変えるような研究を一個やるとしたら?』と自問していたときに、野依先生が水素を使った化合物の研究をされていたことがヒントになりました。水素は化石燃料を燃焼させて生成するのが一般的なので、それならば水を使えばさらにクリーンにものづくりができるのでは? とあるとき考えたのです。それなら光合成を再現して、水からモノを作ってみよう、と思ったのが現在の研究の発端です」
名古屋大学在職当時、野依良治先生との一枚
自然現象を探究することと社会を変革することが交わる、究極の研究テーマですね。実際に研究を始めてみて、いかがでしたか?
「実際は全然思ったとおりには行きませんでしたね(笑)。水を反応させる難しさについては先程もお話ししたとおりですが、こういう無謀なことにチャレンジする人ってなかなかいないわけですよ。何もない更地からいきなり逆転ホームランを狙うようなものです。試行錯誤の中で本来の狙いとは違う化学反応を発見して、それで論文を書いて食いつないできました。先程お話しした光触媒やキャリアを使って水を反応させる研究は、斎藤進先生と共同で10年近く続けてここ数年でようやく成果が出はじめたところです。
そんなペースですから、研究に取り組む学生さんたちのモチベーションを保つことにも苦労しています。教員という立場になって、チームで研究に取り組むということをとくに意識するようになりましたね。学生さんによっては難しい注文をしてもしれっと実現してくれるので大変心強いです。昨年から京都大学に着任しましたが、研究室を共にしている竹本佳司先生、南條毅先生と協力しながら研究と教育に取り組んでいます。
なぜわざわざ難しい研究に取り組んでいるのかと言うと、社会を根本的に変えようと思ったら、すでに研究されていることの後を追ってもなかなか追いつけないからです。だから私は、あまり重要だと思われていない切り口で、かつ、将来重要になると自分が思える研究をやっていきたいと考えています。これは重水素学の研究にも言えることですね」
重水素が「当たり前の選択肢」になる世の中をめざして
それでは続いて、その重水素学についてお伺いしていきたいと思います。まず、中先生と重水素学の出会いについて教えてください。
「研究費特設研究分野『遷移状態制御』の交流会で量子科学技術研究開発機構の安達基泰先生(現在、重水素学〈つかう〉班の共同研究者)とお話しする機会があって、たまたま重水素の話になったのが最初ですね。安達先生のお誘いで学会に参加させていただいて、重水素研究は重要なのに、まだ教科書と呼べるものがないことや、材料となる重水素化合物が高価で研究者に行き渡っていないことなどを知りました。ちょうど水と重水素で私の研究テーマと近しいこともあって、これはちゃんと研究する必要があるなと思ったのを覚えています。重水素研究の先輩である安達先生や岐阜薬科大の佐治木弘尚先生にサポートいただいて、分野全体を盛り上げるために重水素学の立ち上げに至りました。個人的には、採択されたのがちょうど京都大学に着任したタイミングでもあったので、心機一転新しいことにチャレンジするつもりで取り組んでいます」
〈はかる〉班ではどんな研究に取り組まれているのでしょうか?
「〈はかる〉班の第一の目標は、重水素化した物質の物性をはっきりさせることです。重水素化物質では、元の物質よりも質量が変わるほか、いろいろな物性が変わってくる。基本的な物性はきちんと押さえた上で、一番明らかにしたいのは、ストレスをかけた時にどれぐらい結合が切れやすく、あるいは切れにくくなるのかという耐久性ですね。これは〈つかう〉班で研究している重水素化医薬品の代謝速度に直結しています。プロジェクトの順序としては、〈つかう〉班の研究で薬物代謝酵素による代謝の速度が下がった重水素化医薬品に対して、その化学的な検証を〈はかる〉班で行うことになっています。
もう一つ、こちらはまだまだ研究途上でお話できることがあまりないのですが、重水素化物質の触媒としての機能も明らかにしたいと考えています。
目標はそうしたところなのですが、現状はどちらかというと重水素化医薬品を合成する研究がメインになっています。〈つくる〉班の澤間先生とは得意とする手法が異なるので、互いに補い合いつつ進めています。この一年の成果としては、医薬品の分子の特定の場所を重水素化する新しい方法を見つけました。〈はかる〉研究についても、ご支援いただいた資金で新しい計測機器を導入するなど環境の整備を進めているところです。今回のプロジェクトは3年間の枠組みですが、10年計画の最初の立ち上げという位置づけで着実に進めていきたいですね。福住俊一先生をはじめ、領域アドバイザーの先生方の期待に応えていきたいです」
重水素学の研究に取り組まれる中先生
これからますます研究が加速していきそうですね。重水素学を通して、最終的にどんなことを成し遂げたいですか?
「最終的にめざしたいのは、医薬品をはじめさまざまな化学製品が開発される際に、選択肢のひとつとして当たり前に重水素の名前が上がるようになることですね。実際、医薬品ではすでにそうなりつつあります。重水素化の手法や効果といった知見を積み重ねていくことで、社会のあらゆる場面で重水素が活用される基盤を作っていきたいです」
重水素化医薬品はすでに浸透しつつあるのでしょうか。
「2017年にアメリカで承認されたのに続いて、昨年には世界2例目の重水素化医薬品が中国で承認されました。さらに、臨床試験の段階に入っている重水素化医薬品もたくさんあります。それ以外の分野でも、ここ1、2年でいろいろな研究者が重水素に参入してきて、論文数も跳ね上がっている印象ですね。我々重水素学としても、分野全体を盛り上げるという使命を果たせるように、しっかり軸足を置いて取り組んでいきたいです。また、去年から重水素化組織の国際協力機関である DEUNET の組織委員も務めています。これからも国内外での連携を広げながら研究活動を進めていきたいと考えています」
自然界から、難問を解く鍵を探し出したい
最後に、中先生ご自身が今後取り組みたいテーマについて教えていただけますか?
「水からものを作るという大きなテーマをなんとかして成し遂げて、究極的には、植物と同じように二酸化炭素や水、リン酸から何段階もの化学反応を経てあらゆる有機物を作り出せるようにしたいですね。ですが、それをフラスコの中で再現するには、必要なパーツがまだまだ足りていません。自然界で起こっている未知の化学反応をさらに発見することに加えて、その間をつないでいくような仕組みにも着目して研究していきたいです。
新たに取り組もうとしているテーマとしては、触媒を集合体として扱うということがあります。生体内では細胞膜などにいろいろな酵素が密集していることが知られているのですが、密集することにどんな意味があるのかはまだよく分かっていません。そこで、密集状態を人工の触媒で再現する研究に取り掛かろうとしています。生物のありとあらゆる工夫を解明・再現することで、誰も解けないような問題を解く鍵を見つけることができれば、研究者として本望です。
こうした大きなテーマは生涯をかけて取り組んでも達成できるとは言い切れません。しかしその過程でいろいろな発見があるはずなので、そのいずれかが社会への還元につながればいいかなと思っています。大きな夢とは別に、将来、孫に感謝されるような仕事がしたいという思いもありますね」